2022年04月12日

利府なこその関への想い

【利府なこそ関に歴史ロマンを馳せて】

古代和歌
「吹く風を なこその関と 思えども 道も背に散る 山桜かな」 源義家

利府なこその関への想い

揮豪(きごう)とは、有名な歌などを書に写す時に使う言葉です。

利府なこその関への想い


九代目解釈(諸説有)
蝦夷が来るなかれのなこその関といえども、風は通って吹いてしまう。こんなにも綺麗に咲いている山桜の花が散ってしまうではないか…なこその関を抜けて振り返ったら道一面に山桜の花が桜吹雪のように散っている情景・心情である。

利府なこその関への想い
(利府町勿来の関跡の立看板 利府町教育委員会)


古代の蝦夷による国府多賀城焼き討ち「伊治公あざまろ事件」の歴史背景も含め、平安後期の東征(奥州後三年の役)の帰りに義家が、蝦夷を吹く風と比喩して歌ったように聞こえるのは、私だけでしょうか…

義家が奥州後三年の役で拠点にしていたのが多賀国府です。陸奥鎮守将軍に就いていたのが源義家。

利府なこその関への想い

古代の都陸奥国府中ノートです。
都の北が利府で北宮神社があり森郷に関所跡あります。


利府なこその関への想い
(毎年山桜が咲く森郷ダム)

利府なこその関への想い

惣の関北と惣の関南と住所が別れる場所があります。きっとこの場所が「利府なこその関」があった場所と口伝があります。


利府なこその関への想い


現代も「利府なこその関」と呼ばれた場所として伝承される利府町森郷・惣の関北には、今も勿来川が流れています。

利府なこその関への想い

古代の東山道だと云われる惣の関北の板谷街道の住所は、宮城県宮城郡利府町森郷字「名古曽」である。

利府なこその関への想い
(古代東山道と云われる板谷街道)
なこその語源である「険しい峠」そのものが千年の時を越えて、現状で遺っています。

利府なこその関への想い

東山道板谷街道の終わりで古代東北の都・多賀国府に入る関所「惣の関」の山には山桜が自生している。義家は、惣の関ダムに沈んだ沢沿いの山桜が咲き誇るこの地に想いを馳せて和歌を詠んだのではなかろうか…郷土の情景に歴史ロマンを感じます。



利府なこその関への想い

多賀国府府中の北関所・北宮が利府森郷です。今もなお5月初旬には、山桜が咲いている。


古歌の枕詞「なこその関」の入った和歌は百種類以上あると云われています。「なこそ」言葉の文学的由縁は、険しい峠、峠越え、もう会えなくなるような峠、来ないでくれ、のような意味合いで使われているようです。

故に、なこその関の所在地を1ヶ所に特定することは出来ないのかもしれません。ただ義家の山桜の和歌に関していえば、時代背景、歴史背景、地理的に利府もまた有力だと想われます。

現在利府で、利府なこその関の伝承地は、利府森郷「惣の関」の手前の現住所です。惣の関北・惣の関南と別れて実存しています。

惣の関の「ソウ」とは古代原住民が使ったアイヌ語で「滝」という意味合い。惣の関ダムが出来る前まで滝のような景色だと想われます。

なこそという言葉は、都の貴族や貴人が和歌に使った枕詞なので地元住民は使わない言葉で地元では「惣の関」と呼んできた。貴人たちの和歌の中では「なこその関」と呼び名が違って伝承された根本的な要因だと想われます。

個人的な考え方ですが、「なこそ」の言葉の意味合いからも福島いわき勿来も菊田の関が実在していた場所なのでもちろん歴史ロマンを馳せることが出来ると想います。古代陸奥(東北)の都・宮城郡利府も惣の関が実在していたと云われます。

要するにそれぞれの歌人たちが何処の関所をイメージして詠んだかでそれぞれの「なこその関」があるかもしれません。いわきの勿来の関も利府の勿来の関も「なこその関」の可能性があるのかもしれません。


ただ譲れ気持ちは、平安後期に東北の都・多賀国府を拠点にしていた時期に東征の帰りに鎮守府将軍・源義家が詠んだとされる山桜の和歌は、利府なこその関だということを郷土利府の誇りをかけて充分に可能性があると信じて言動にしてゆきたいのです。

個人的には、いわき勿来の関跡も、江戸時代から日本古代史や古代文学を探求してきて文化の保全継承を志に町全体で努力してきた誇り高き場所だと思います。それにより、いわき市勿来は、立派な古代の文学や観光スタイルを構築してきました。

そのような意味合いでは、いわき勿来の関の関係者には、敬意を表しています。

利府町も郷土の歴史文化に対して、いわき市のように代々にわたり、誇りと愛着を抱いてゆけることを願います。義家の想いに馳せながら、利府の威信をかけて利府郷土史を勉強してゆきたいです。

地域に根差した町のミドル層として、町の大人、若者、子供たちに紡いでゆき、故郷利府に誇りと愛着「シビックプライド」が後世にわたり醸成してゆくことを願います。


利府なこその関への想い

利府なこその関への想い

利府森郷の勿来関所跡から黒川郡に抜ける古代東山道「板谷街道」「板谷峠」も現存しています。それは、とても長く険しい峠です。「なこそ」の由縁である険しい峠そのものです。

義家の山桜の歌がどこのなこその関で歌ったものを示す文献が現存しないけれど、古代東北の都・陸奥国府中の歴史背景と利府森郷の情景そのものが、なこその関を示してくれているような気がします。

いわきは、関所モニュメント、資料館など、古代官道や古代和歌文学に歴史ロマンを馳せることが出来る「勿来関」です。義家の騎馬像もあります。

利府は、なこその言葉の由縁と森郷の情景を核に「利府なこその関」と呼ぶことが望ましいと考えます。お互いの町を慈しみながら古代のなこその関に歴史ロマンを馳せることが良いのではないでしょうか。

いつの日か、いわき勿来と利府がお互いの町に慈しみの想いを抱きながら、わかり合える日が来ることを願っています。


邪馬台国論争を例にあげると畿内説と九州説があり、お互いに討論をしている内に奈良と佐賀が今ではお互いを認め合う友好都市になっていると聞いています。なこその関論争で、いわきと利府も友好都市になれることを本気で夢をみています。


お互いの町が古代の歴史文化を敬い沢山の方々がそれぞれの町に歴史ロマン、誇りと愛着を抱きながら町が発展繁栄することを心から祈願しています。

九代目湯守



参考文献
蝦夷となこその関
著者 菅原伸一


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Posted by 九代目 at 14:38│Comments(0)当主心得
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